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学位論文というものは [ 教育, 研究 ]

学位論文についてちょっと書いてみようと思う.

学位論文にはページ数の制限は無いはずである.
つまり,あれもこれも,書きたいことを書き尽くして良いのだ.
数百ページに及べば,まとめる能力を疑われますが・・・

例えば,情報処理学会全国大会の予稿は2ページの制約がある.
発表件数が多いため,致し方のないことである.
研究会やシンポジウム等では,4~8ページ程度に緩和されることが多い.
しかしながら,紙面に制約があることには変わりない.
論点を絞って,何を読者に伝えたいのか,発表したいのかを書かなくてはいけない.
紙面に制約がある以上,あれもこれも書くわけにはいかないのだ.
その代わりに,発表機会と質疑応答が準備されている.
発表によって,紙面で書ききれなかった補足を行う.
また,説明不足で伝わりきらなかった点や発表者の想定範囲外のことについて,
発表者と会場との質疑応答で,明確にする機会が与えられているわけだ.

論文誌になれば,その制約は大幅に緩和される.
例えば情報処理学会論文誌の場合,
規定は8ページだが,それを超えることが許されている.
ただし,超えた分については余分にお金を支払う必要があるわけだ.
お金と紙面との相談になるわけだが,制約を取り払う機会があるわけだ.

だがしかし.
学位論文はそれらとは性質が違う.
学位論文にはページ数の制約がない.
どれだけ書いてもいいのだ.
別のいい方をするならば,説明しきれるだけ十分な紙面が与えられているのだ.
卒研発表会や修論発表会があるにも関わらずだ.
これは何故か?

まず1つには,修士論文は修士生活の集大成であるので,
紙面の制約を課すことなく,全てをそこに書いて欲しいという思い.
もう1つには,それが1つの完結した読物として価値を持つように.
ではないかと考える.

学位論文は学位審査で審査員(要するに学科の先生)に読まれる.
そして,審査員は学位論文と発表を基に,学位審査を行うのだ.
こういうことが行われているであろうことは,恐らく想像に難くないだろう.

ここで,こう考えてみたい.
審査員A「なんだこの論文は?何を書いているのかサッパリわからないではないか」
審査員B「このロジックは正しいのか?証明が完全ではないな・・・」
審査員A「どうする?」
審査員B「もう1年やってもらうか」
なんていう事象が発生しないとは限らない.
では,どうするか?

論文は読まれることを前提に書く.
これは当然だ.
読まれない書物に価値がないように,読まれない論文にも価値はない.
論文が読まれないということは,審査されないということに同義である.
学位論文は書けばいいというものではないのだ.

では,学位論文の読者は誰か?
少なくとも審査員(要するに学科の先生)は審査のために読む.
つまり,審査員が読んでもわからないものを書いてはならない.
当然ながら,同じ学科内でも,多種多様な専門をお持ちの先生方がいらっしゃる.
自分が専門とする分野のエキスパート以外が読むことを念頭に置いておかなくてはならない.
特に修士においては,かなり深い領域に突入していることが多く,
同じ専門領域の先生であっても,詳しくは知らないといったことも多々ある.
そういうことを考慮して,誰が読んでもわかるように書かなくてはならない.

自専門領域では当然のことであっても,他領域では違うでしょう.
その読者の理解を助けるために,少しでも情報は提示しておくべきである.
その研究はその領域においては,必然の研究かもしれないが,
他領域の人にとっては,何故その研究が必要であるかがわからないかもしれない.
そのためには,分野の現状と研究背景を説明することは重要だろう.

そんなことをしていたら,あっという間に紙面は埋まっていく.
だから,ページ数に制約がないのである.

・きちんと説明する
・きちんと主張する
・曖昧にしない
・読むために必要な知識は,そこに準備しておく

学位論文は集大成です.


なーんて,偉そうなことを書いてるけど,
学位論文をそういうものだと認識したのは,修士修了後ですよ.
今になって修論を読み返すと,恥ずかしくって恥ずかしくって.
よくもまぁ,こんな拙い文章で満足してたもんだと思います.
修論製本前に校閲したのが,先生と自分だけってのが良くないね.
より良いものを書こうと思ったら,研究に関係がない第三者にチェックしてもらうことです.

学位論文は一生涯残るものなので,しっかりとしたものを仕上げてください.