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「ゆとり教育」と教育改革の行方 [ 教育, 記事 ]

asahi.com:「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授) - 紙上特別講義 - 大学 - 教育
asahi.com:「ゆとり教育」と教育改革の行方:2(寺脇教授) - 紙上特別講義 - 大学 - 教育

「ゆとり教育」の中の人による連載記事があった.
失敗を失敗と認められないこと自体が失敗だと思う.
彼の論調自体もふらふらしていて定まらない.
何を言いたいのかが釈然と理解できない.
こうやってのらりくらりと攻撃をかわす辺りがお役所的である.


まず始めに,冒頭にあるこの言葉を目に留めてください.

成功だとか失敗だとか、結論を出すのは性急に過ぎます。

1980年生まれの小学校3年生が人生で1回しかないように,
1990年生まれの小学校3年生も人生で1回しかないだろう.
今更ながらに,「失敗でした.やり直します」なんて出来るわけがない.
決断するなら早くしなくてはならない.
それとも何か.
現状の「ゆとり教育」世代は実験体だと言いたいのだろうか.

一人ひとりの子どもに応じたきめ細かな教育ができていないのではないか。そんな危機感が浮かび、学習指導要領を大幅に改定し、授業時間を1割弱、学習内容を約3割減らし、教育の「個別化」を図ることになりました。

学習内容は3割も減っているのに,授業時間が1割しか減っていない.
これがゆとりの元凶ではないのか.
「きめ細やかな教育」を施すための授業時間を1割も減らしているではないか.
「個別化」が本当の目的なら,授業時間をそのままに学習内容を削減すればよいだろう.
そうしなかったのは,単純に教育の放棄ではないのか.
そもそも,教師1対学生多の状況を改善しない限り,個別化に限界があるのは明らかだろう.

ところが、一律に教える内容を減らしたと受け止められ、「学力が下がる」と批判されました。理解の進んでいる子はより力を伸ばすようにし、そうでない子は基礎をしっかり学べるようにするという趣旨だったのですが。

オレは教える内容を減らしたから学力が下がったとは考えていない.
教育方針自体が学力を下げていると考えている.
内容ではなく,やり方だ.
それはいいとして,「趣旨だったのですが」は言い訳極まりない.
「上はそう考えました.現場はそう考えませんでした.現場の暴走です」とでも言いたいのだろうか.
それを統率するのが上の役割ではないのか.
この言葉を汲むだけでも,この時期の教育は失敗だったことがわかる.

性質が異なる第2期も第3期も一緒にして「ゆとり教育」と呼び、批判するのは乱暴です。

その批判が乱暴だとして,乱暴だったら取り合わないのか.言論封殺か.
それはそれで構わないが,教育者視点ならそれでいいかも知れないが,
教育されている側(要するに児童・生徒)視点から見ればたまったものじゃない.
「第1期は失敗かもしれません.第2期は成功のようです.あなたは?1期ですか・・・残念です」
こういう感覚でしか「ゆとり教育」を捕らえていない.

ところで第1期と第2期と第3期はそんなにも違うものなのか?
直感的にそれらは連続的に変化していっていると思うのだが・・・
それとも「ある年は第1期ゆとり教育でした.その翌年は第2期です.全く違います」というのか.
誰がこの考え方に納得するのだろうか.
この時期に該当する児童・生徒を持った親御さんはぶち切れ間違い無しだろう.


今回は、「ゆとり教育」が学力低下を招いたという見方が正しいのか、そもそも学力とはどんな力を指すのかを話します。

冒頭の文言を覚えているだろうか?
いきなり結論に達しました.
何を言いたいのだ.

文部科学省が今年4月、全国の高校3年生約15万人を対象に05年秋に実施した学力テストと意識調査の結果を公表しました。前回調査(02~03年)にも出題された問題で比べると、正答率は約14%の問題で上がり、約8割はほぼ同じでした。「勉強が好き」という答えは増えました。

この公表されている資料を見つけられないので,コメントしづらい.
「勉強が好き」という答えはどういう質問から導き出されるのだろうか?
「勉強は好きか」という質問に対して「勉強が好き」と答えるなんて,にわかに信じられない.
オレだった「嫌いだがやらなくてはならない」と答える.
そして,ミスリード的だが,「増えた」と書いているが,どのように増えたのか?
前回がどの程度で,今回がどの程度なのか?
絶対数が増えたのか?割合が増えたのか?
誤魔化されているような気がする.

「ゆとり教育で学力が下がった」という意見は必ずしも正しくないということでしょう。

ゆとり教育で学力が下がったとか下がってないとか,結論を出すのは性急に過ぎます.

加えて、学力低下問題を考える場合、そもそも「学力」とは何か、ということを明確しておくことが不可欠です。私は、本当の学力とは、単なる知識量ではないと考えています。時代の変化についていけるだけの柔軟な思考力や応用力とセットになって、初めて学力と呼べる。そう思います。02年度からの「ゆとり教育」の狙いも、そこにありました。

学力が単なる知識量でないことに同意します.
柔軟な思考力や応用力がセットで必要なことも同意します.
が,それは学力ではない.
それを学力と定義づけるなら,学力調査なんて行っていないではないか.
あんな試験で学力が推し量れるとでもいうのか.
そもそも,過去の学力のデータがないわけだから,比較できなくなるではないか.
「学力」とは「学ぶ力」であり,「学問の世界を前向きに進む力」だ.
後進的な教育改革からは学力なんて生み出されない.間違いない!

例えば、有名大学を卒業しても、パソコン一つ操作できないおじさんがたくさんいる。

この論点のすり替え技法は素晴らしい.
有名大学を卒業した人は完全無欠の完璧超人でなくてはならないらしい.
「パソコンも扱えないくせに!」と蔑みたいらしい.

「自ら調べて、学んでみようという姿勢」を引き出す教育が求められています。

そうだ.それが悪だ.全ての悪だ.
「自ら調べる」という教育がどのように行われているか知っているか?
往々にして「総合教育」の時間に行われ,PCとインターネットを使って行われる.
つまり,「インターネット万能」を前提にした教育が行われている.
「文献(資料)調査=インターネット検索」なんだ.
図書館の使い方を教えるべきだろう.
PCの操作なんて,時代の要求事項なんだから,放って置いたって身に付く.
図書館での文献調査は時代の要求事項外になりつつある.
しかし,インターネットに比べて図書館の文献は圧倒的に勝っている.
それを何故教えない.
インターネットを知って,それが全てだと勘違いしているから困る.


まとめ
ゆとり世代の学力が低下しているのかどうかは,議論の余地がなくなった.
それは諦めるとして,今の大学1,2年生の急激な学力低下はどのように説明されるものなのか.
「自ら調べる能力」も「学ぼうという姿勢」も圧倒的に前世代より劣っている.
現場から目をそらして,理想論ばかりつらつら並べて,一所懸命に言い訳して・・・
どうしてくれるんだ!文部科学省!