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思想 アーカイブ

2007年08月08日

原点回帰

原点回帰ってなんだろう.
辞書を引いても,載ってない.

原点は「ものごとの出発点」.
回帰は「一回りして元へ戻ること」.
原点回帰は「一回りして出発点へ戻ること」だろうか.

大企業や売れてるバンドとかが,原点回帰って言葉をよく使うと思いませんか.
意味合いとしては「初心に返る」とか「古き良き時代」とか,そんな意味で使います.
確かにそういうつもりなんだろうが,もう1つの決定的に重要なことがある.

前に進もう,前に進もうと色々と試行錯誤してきた.
してきたけれど,全く成果が出ない.
てんやわんやで修正不可能になってきた.
ああ!もう全部やめにして,リセットしたい!

原点回帰という言葉を使うと言うことは,少なくともその直前の状態は如何ともし難い状況なのだろう.
しかも,修正不可能なぐらいに,どうしようもないジェンガ状態.
それを真っ新にして,もう1度最初からやり直す.
ゆとりゲーに見られる「強くてニューゲーム」に相当する感覚.

多くの場合,原点回帰という言葉を使う場合,過去の失敗を認めたくないときに使う.
「色々試したんだ.その結果,初心に返ろうと決断した」
決して,失敗であるとは認めない.
失敗であったと認めてしまうと,後進していることになるから.

工学部を改組して,電子情報学部に改組して,情報理工学部に改組して,情報通信学部に改組する.
決して失敗と認めない.
そろそろ,東海大学は原点回帰と言い始めそうな気がしてならない.そう近いうちに.

2007年03月04日

私が保守派でなくてはならない唯一の理由

リンクベイティングに触発されたエントリータイトル.

皆さんご存じであるように,私は保守派の人間であり,保守的な立場を取る.
私が保守派でなくてはならない唯一の理由を説明してみたい.
なお,このエントリーに触発されて保守派に転じることはお勧めできない.
「保守派かっこいい!」程度の考え方で保守派はやっていけない.
深層の深層から保守派が滲み出るような思想がないとダメ.

保守派の対極的存在といえば,革新派であろう.
私は革新派の考え方もスタンスも何もかもが嫌いでならない.
それこそが,私が保守派でなくてはならない唯一の理由である.

革新派は常に現状を何かに置き換えようとする.
表立っていうならば,現状をより良い状態に進めるために,新しく革めるのである.
聞こえはものすごく良い.
だが,少し慎重に考えていただきたい.

現状を示す状態Aがある.
革新派は状態Aをより良くするために,改革案を提出し,状態Bへと遷移させる.
よく考えよう.
新しく革めることを革新というのだ.
つまり,現状Aを状態Bで置き換えるのだ.
いうなれば,ほぼA∩B=φである.
さらに,状態Bから革新が起き,状態Cに移行したとしよう.
この状態では,ほぼB∩C=φであり,当然ながらA∩C=φである.
何故ならば,A∩C≠φだとするならば,それは革新ではなく,後戻りである.
革新派は絶対に自らの改革が失敗であることを認めはしない.
だからこそ,如何に状態Bよりも状態Aが優れていたとしても,
状態Aに後戻りすることはなく,新しい状態Cへと導くのだ.

もっと言おう.
革新派は常に革新を期待している.故に,革新派である.
革新し,革新し,革新して,革新し続ける.
つまり,いつまで経っても革新は終わらない.
要するに,不安定.
革新派は決して安定を求めない.

さて,保守派は一体どうであろうか.
保守派は現状を守り続けることを信条とする.
古き良き伝統を守り,今も守り続ける.
過去を,歴史を,伝統を守り続けることの難しさがわかるだろうか.
その苦労たるは,革新のそれとは比べものにならない.
現状を守り続けるということは,時代や世代などのあらゆる障壁と戦い続けることである.

私は言いたい.
革新とは,保守できない弱い人間が逃げるための手段であると.
革新の名の下に,低きに流れているだけではないのだろうか.
「○○な風習なんて時代遅れ」
「××の礼儀は必要ない」
「古くさい考え方なんてかっこ悪い」
「めんどくせぇから守らなくてよくね?」
保守はその流れに逆らい,より高きに留まり続ける.

水は低きに流れ,人の心もまた低きに流れる

攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG 第23話「橋が落ちる日 MARTIAL LAW」より.

よく保守派は勘違いをされる.
現状に満足している.新しいことを嫌う.何もしようとしない.

現状を守るということと,現状に満足し呆けることは,同義ではない.
保守は古き良き伝統を守り続けるのだ.
丁寧にいうならば,「良いものはできるだけ維持するべき」という考え方だ.
もうお分かりだろうが,良いものは守るが,良くないものは改善する.
当然,より良い状態へと改善を促していくのだ.
保守は良いものを守るために,改革することを常に忘れてはいけないのだ.

忠義も礼節も上下関係も伝統も重んじる.
それでありながら,常に現状に満足しない.
だからこそ,私は保守派でなくてはならない.

2007年01月27日

飲酒ひき逃げ厳罰化

飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名

誤解があったら指摘してください.

飲酒運転の厳罰化に伴って,飲酒ひき逃げが多発しているそうだ.
その場で捕まると飲酒運転になるからであり,
ひき逃げしてアルコール検知を逃れた方が刑が軽いそうだ.
だから,逃げるんだそうだ.
あわよくば,逃げ切りってことだろう.

当然ながら,ひき逃げ後に捕まったとなれば,
事故発生時とは状況が違うため,飲酒運転の立証は非常に困難となるだろう.

で.よくわからないのだが,飲酒運転時のひき逃げに対する厳罰化を求めているようだ.
中黒(・)で書かれてるから,「飲酒の厳罰化」と「ひき逃げ犯の厳罰化」を求めているのか,
「飲酒ひき逃げ犯の厳罰化」を求めているのかがわからない.
日本語的にそれは明らかなのかもしれないが,ハッキリと理解できない.
何かを主張して運動していこうという団体なら,誰もが分かるようにハッキリと書くべきだ.

という批判は主旨ではないから,そこそこにして・・・
「飲酒ひき逃げ犯の厳罰化」を求めるという動きは,間違っているんじゃないかと思う.

飲酒運転だろうが,素面運転だろうが,そんなこと関係なく,
ひき逃げ自体を厳罰化すればいいじゃないか.
人を轢いておいて,救急車を呼ぶでもなく,助けるでもなく,ただ逃げるなんて,
自己保身ってレベルじゃねーぞ!
ひき逃げ自体を危険運転致死罪の適用範囲にしてしまえばいいんじゃないだろうか.

違うのかなぁ・・・
法律に詳しくないから,全然分かりません.
全然分からない法律に支配されてる法治国家日本に住んでる,ボクの戯言.

2007年01月13日

ブログには嬉しかったことは書かない

深く考えないで捨てるように書く - ブログには嬉しかったことは書かない

同調したので,エントリー.

このブログも不平不満や批判や一方的な愚痴が大半を占める.
それ以外は,備忘録や自己宣伝が位置づけられているわけだ.
要するに,私も不満があるからこそ,ブログを書いていると言えよう.

でも、怒るときはそうとは限らない。「なんでそんなに怒ってるの?」「どうしてそんなことで怒るの?」という反応がしばしば返ってくる。あげくに「そんなことで怒らなくてもいいじゃん」なんて言われたり。場合によっては「そりゃあんたのほうが悪いよ」なんて言われたり。

その通りだ.
何かを批判するということは,自分も批判される覚悟が必要である.
それは別の言葉に置き換えると,「議論」という言葉になるだろう.

嬉しかったことについて,徹底的に議論するだろうか?
いや,しないだろう(反語).
議論は重要なことである.
自分ではない誰かと意識の交換や知識の衝突をさせるためには,議論が必要だ.
他人の世界と自分の世界を衝突させる行為と言ってもいい.
そうしなくては,分かり合えないし,自分も育たない.
だから,批判するし,不満を述べる.

と,ここまで書いたが,それはこのブログの話.
私は別のブログも書いている.
こっちのブログは思いつきのままに書き,不定期であるのに対し,
そっちは毎日定期的に書いている.
つまり,そっちのブログは日記の位置づけなのだ.
何もブログを日記のように使ってはいけないというルールはない.
それにブログが日本で爆発的に普及したのは,日記目的だったはずだ.
当然ながら,日記なので,嬉しいことも怒ったことも悲しいことも楽しいことも書く.
日常に起こったあらゆる事を書く.
それはそれでいいじゃん.

要するに,何のためにブログを書いているのかってことですね.
少なくとも,このブログは自己表現の場.

2007年01月02日

ブログは外部記憶装置

304 Not Modified: ブログは思考の外部装置

同調したのでエントリ.

ブログは自分の二次記憶装置,とりわけ外部記憶装置である.
それは脳味噌と呼ばれる一次記憶装置つまりは内部記憶装置より,質も量も劣る.
エッセンスという意味では,二次記憶の方が質は高いだろうか?
忘却可能性を考慮すれば,一次記憶の方が量は少ないだろうか?

ブログを用いる理由なんて,数多あるだろう.
オレは自己表現の場と外部記憶装置として使っている.
ブログを自分の脳の次に位置付ける記憶装置とするならば,これほどに対外的に開かれた表現はない.
「オレの脳を直接スキャンしてくれぇ!」
などと自分の意志やイメージが伝わらないときに叫びたくなることがある.
それ.まさにそれ.
多少の齟齬が発生するとはいえ,
「オレの脳を直接スキャンしてくれぇ!」
などという意味不明なシャウトをするよりも,よっぽど表現している.表現できている.

ブログはオレの思考の一連の流れを形成している.
いや.自己の興味という意味であるならば,ブログよりもSBMだろうか.
自己の表現という意味であるならば,ブログだろう.
だから,ブログとSBMが融合してしまえばいいと常々思ってる.
あ.そのためのはてなダイアリーか.

ブログには自分が今考えたことを書いていきたいと思ってます。 考えたことって、何かに書いておかないと忘れてしまうので。

私も忘れてしまいます.
あまつさえ,今書こうとしたことすらも忘れます.
「忘れてしまうことは,さして重要なことではない」っていう考え方もありますね.
だがしかし,同じ忘れるにしても,どこかに拠所があった方が安心です.

ときどき、同じことを繰り返し言っていることがありますが 気にしないでください。

下さい.

あのときの自分と、今の自分が同じことを考えた。 それだけのことです。

ことです.

そしてそれは、その人にとって非常に大きな財産となると思います。

思います.

だから,今日もブログ.
しょこたん曰く

ブログは『毎日生きた証を残さなきゃ』と焦って書いてた

2006年12月21日

「超一流」の言葉の繊細さ

朝日新聞2006年12月19日付朝刊19面より,スクラップ転載.
061219_asahi.png

何も超一流に限った話ではない.
何もアスリートに限った話ではない.

自分の世界と自分とは異なる他人の世界を
貧弱なコミュニケーションツールである「言葉」で共通化するためには,
確実な意思疎通が必要だということ.

貧弱で,曖昧で,儚く拙い,「言葉」を用いて意思疎通を行うためには,
そこで用いる「言葉」一つ一つに厳密な定義を与え,共有し合うしかない.
これは何も不思議なことではない.


あなたはよく分からない「言葉」を知った気分で使う.
あなたはよく分からない「言葉」を分かった振りして聞く.

「言葉」を用いるコミュニケーションで,
あなたはあなたではない誰かのことをどれだけ正しく理解していますか.
齟齬が発生してはいませんか.

自分が正しいと思うことを常に行う

自分が正しいと思うことを行えばいい.
後悔しないために.

自分の思う正しいことが,常に正しいとは限らない.
自分の思う正しいことが,過ちだったのならば,反省して,正せばいい.
それは適応であり,学習であり,進化である.

自分が正しいと思うことを常に行えばいい.

2006年12月12日

これは教育の放棄?

小学校に勤務するようになって,職員室に入り浸れるので,
色々な裏事情やらなんやらかんやらが伝わってくる.
小学校勤務前からそうだと考えていたが,改めて実感した.

小学校で全員に平等に教育を施すなんて,到底無理.

職員室内では職員の皆様の涙ぐましい努力があるんです.
授業に集中できず,フラフラと教室を歩き回ったり,
周りの子にちょっかい出したり,授業の邪魔してみたり・・・
大変なんですよ.
現象はそんな感じだけど,その分類は様々で,
叱れば反省するとか,叱ってもダメとか,周りの影響でそうなってるだけとか・・・
学級担任だけじゃ,全然回りません.
校長・教頭・教務・学習室担任・こころの相談室・地域ボランティアと三位一体どころじゃないですよ.

オレが思うにはですね.
小学校の役目は,勉強をさせることじゃないと思うんです.
小学校は社会の中で生活をしていくための基礎を作るんだと思う.
躾もそうだし,マナーもルールもそういうものだし,道徳もそう.

どう考えても,授業時間数と学習範囲が全然かみ合わないんですよ.
時間的に詰め込みすぎだし,やり方として無理がある.
近年のゆとり教育の影響で,現場は四苦八苦しているようで,
授業に重きを置くせいで,授業中に騒ぐ生徒がいても,きちんと指導できない.
だって,担任は1人でしょ?
叱ってる間,誰が授業進めるの?
言い訳じゃないけど,現場は悪くない.
無理だよ.

つまり,そんな状況下でも勉強できる子は伸びる.
周りに影響されて集中できない子は伸びない.
結果,近年良く言われている二極化傾向になるのだと思う.

責任感,自立心,躾,礼儀,協調性などなど.
小学校ではそういった面を重視すべきだと思うんです.
結果,勉強が置き去りになっても,構わないと思う.
時間は絶対的に有限です.
あれもこれもと全部を得ることはできません.
取捨選択が必要になるでしょう.

これって,教育の放棄ですか?

2006年06月29日

イメージ

プ実のTAをやっていて,感じることがある.
類似のプログラムをコピペして,
「このあとどうすればいいんですか?」とか,
「なんで動かないんですか?」とか,
そういった質問をよく受け付ける.

何故こういう質問を繰り返すのかと言えば,
「考えていないから」の一言で片付くのだが,
それではあまりにもおざなりなので,
「考えない」理由を考えてみよう.

私が思うには,イメージできないからだと思う.
プログラムがコンピュータの中でどのように動き,
命令がどのような機能を果たし,
変数がどのように遷移していくのか.
そういったことが,イメージできないのだと思う.

彼らは,紙もペンも持たず,常にディスプレイと睨めっこしている.
IT革命の影響をもろに受けた世代なので,これで理解できるのかもしれないが,
旧世代の我々にとっては,並列思考を苦手とする脳をサポートするために,
必ず紙とペンを持ち,現状態を書き留める.
確かに,我々TAは紙もペンも持たずに,プログラムを書いていくわけだが,
それは脳内でプログラムをトレースすることができるからであり,
それができない彼らが,その姿を真似したところで,無駄なのだ.

つまり,問題をイメージできていないのだ.

実際,誘導を行うと問題を理解してもらえることが多い.
ステップを踏んで,何がどうなって,どこそこがああだから・・・
と説明すれば,それをイメージすることができるらしく,
おおよそ理解してもらえる.
本来,そういったイメージの構築作業は,
紙とペンを利用して,脳と行うべきだと思うのだが・・・
なかなかそれができないようだ.
我々TAを使うのは結構だけど,TAはテストの時には居ないことを自覚して欲しい.
最後に頼れるのは,自分自身だけですよ.

イメージは重要だと思う.
スポーツではイメージトレーニングがあるし,
医龍や白い巨塔もイメージで手術練習するし,
女王の教室でも「イメージできる?」って言ってるし,
John Lennonイマジンだよ.
理解するためには,イメージが絶対に必要不可欠なのです.

イメージできないから,理解できない.
理解できないから,考えようもない.
考えようもないから,問題が解けない.
そういう連鎖にはまっているものと思われる.

プログラムの動作をイメージすることも然り.
何かに成功する自分.
苦境を跳ね返す自分.
目標を達成する自分.
イメージできないことは,実現できない.

イメージしなさい.

2006年03月26日

思想を持つこと

思想っていうものは,不満や執着心があるからこそ,生まれるんだと思います.
満足していることについては,批判することもないし,
何をどうだと思うこともないはずです.

思想を持つということは,そのことに対する執着心の現われであり,
現状存在する不満と対峙すると言うことでしょう.
そのことに対する執着心を持つ人が,全て同じ思想を持つとは限りません.
そうなると,きっとその思想は,対立し合うことになるんです.
そうしたら,思想を戦わせればいいと思います.
徹底的に戦わせ,議論し合えばいいと思います.

その結果として,よりよい思想へと向かうかもしれません.
己が未熟さを思い知らされ,自己思想が朽ちるかもしれません.
でも,そうやって思想を戦わせることこそが,
未来の希望をもたらすんだと思います.

常に進化し,現状を批判し続ける.
それが思想であり,希望なのではないでしょうか.

2006年03月12日

礼儀と人間関係

オレは礼と儀を重んじる.
だが,周りに強要はしない.
礼も儀も,人に言われてやることではない.
自らがその必要性を自覚し,身につけるものである.
だが,オレの周りに礼儀を重んじない人間はいない.
それは,何故か.
出会った時点から,礼儀を重んじる心を持っていたか.
または,接しているうちに,気付き,身につけたか.
あるいは,オレが遠ざけたかのいずれかだ.

礼儀といえば,上下関係についても書かざるを得ない.
オレは上下関係が嫌いだ.
なるべく,無くなるべきだと思っている.
しかしながら,全世界はオレのような強硬派を良しとしない.
上下関係を維持する最低限の礼儀は常に守る.
特に,目上の方々と接するときは,注意を払う.
それでいて,相手方が崩してくださるときは,砕ける.
もちろん,最低限の礼儀を欠いてはならない.
オレが身につけてきた処世術の一つだ.

しかし,自分よりも目下に,同じことを強要しない.
それは,自分がそうであるようにだ.
TAや研究室内や学内などで,慕われる存在でありたい.
そう考えるが故に,目上であるというギャップを下げ,
なるべく接しやすいように,自らを崩している.
それはプライドを捨てることとは,大きく意義が異なる.

タメ語で話されても,1年生に弄られても,往々にして,気にしない.
しかし,上下関係があるなかで,
最低限の礼儀を欠く人間に対しては,それ相応の態度を示す.
親しみやすいと見下すを混同してはならない.
どう転んでも,目上は目上のままだ.
例え,長い人生の間に,社会的地位が逆転することがあっても,
何を拠り所に,見下すことができようか.
いや,できない(反語).

2006年03月06日

一人歩きする言葉

一度,飛び出した言葉は,発言者の意には従わない.
受取手がどう解釈したかに即する.
ここで,発言者と受取手の間に,意識の相違が発生すると,
すれ違いが起るわけだ.
もしも異なる解釈をされた場合,
発言者はそうではないと訂正をすることが出来るが,
それは後付であり,弁解にしかならないことを忘れてはならない.
だから,発言者は常に最良の言葉を選び,繕わなくてはならない.
そういう風に小学校で習ったはずだ.
「相手の気持ちになって考えてみなさい」と.

仮に,その解釈が自分の意とは大きく異なり,誤解であったとしても,
自分が発した言葉なのだから,誠意を持って対応しなくてはならない.
政治家は,よくそういった議論をしている.
「○○は××である.前言を撤回しなさい.」
撤回するということは,自己の責任を明確にするということだ.
ここで,責任を逃れようとする政治家は,決まってこう言うはずだ.
「記憶に御座いません」「でっち上げです」
下らない.

こうして考えると,あらゆる事象を考慮し,
怯えて発言しなくてはならないように思える.
だが,オレはそんなに気を遣ってはいない.
もちろん,多少は考えるし,多少は選ぶ.
だが,そんなに神経質にはならない.
この思想は理想論であり,現実には適合しない.
世間話も何もかもが,危うくなってしまうからだ.

だが,オレは世間話もするし,議論もするし,討論もする.
ましてや,不満を吐くし,愚痴も言う.
何故,そうできるか.
この思想によって培われ,染みついた習慣が一つ.
もう一つは,自分の言葉に責任を持っているからだ.
何かがあれば,自分の責任において,誠意を持って対応する.
当然で,当たり前で,自然なこと.
それが,最も重要なことである.
それが,礼でもあり,儀でもある.

2006年03月01日

行けたら行きます

友人の日記に,こうあった.

「行けたら行きます!」って意味がわからない。 こういう曖昧な表現でとりあえずのつながりを持とうとするような人間にはなりたくない。

よくわかる.
行くのか行かないのか,ハッキリするべきだ.
行くにしろ,行かないにしろ,
誘ってくれた方に対する最大限のリスペクトをするべきだ.
行くのであれば,行く意志を明確に示すべきだし,
行かないのであれば,行かない意志を明確にすると共に,
誘いに対する感謝と謝罪を行うのが,美しい関係.
行けるか行けないかがわからないときは,返事を保留するべきだ.

「行けたら行きます!」などというのは,無責任の塊だ.
この返事で行ったとしても,「行けたら行くって言ったでしょ?」で片付く.
行かなかったとしても,「行けたらって言ったでしょ?」で片付く.
つまり,どちらに転んでも,自分の退路が確保されているわけだ.

責任と信頼は表裏一体だ.

2006年02月26日

理想論

カテゴリに禁断の「思想」を増やした.
このカテゴリを設置したからには,思想を大々的に暴露していく.
オレの思想のサイズに当てられたくない人は,十歩引いて読みましょう.

理想を100%適えることは出来得ない.

理想の100%は不可能だが,100%に近づくことは出来る.
「理想に限りなく近い」と呼ばれる状況だ.
もっと言えば,理想は実現され得ないから,理想なのだ.

オレは完全主義者だから,理想に限りなく近づきたいと考える.
しかしながら,理想を100%適えることは出来得ない.
つまり,どこかしらで妥協をする必要性がある.
では,どこで妥協をするのか?

「理想の70%と30%の妥協」
この辺が妥当なところだろうか.
30%は大きいと思われるが,現実問題,
理想の50%を超える現実は,希有稀である.
もしも,優に50%を超える理想があるなら,それは理想ではない.

不可避な事象もある.
理想の99%を適えていたとしても,
残りの1%が妥協し得ない事象だとしたらどうだろうか?
1%でも妥協し得ない事象があれば,それは理想には近づかない.
仮に,理想を99%適えていたとしてもだ.

この条件下で妥協し得ない事象を妥協するか否か.
これが,自我であり,思想であり,処世術だろう.

って突き詰めていくと,理想がなんなのかがわからなくなる.
ホラ!思想って楽しいネ!

2006年02月21日

大人になるとは

私は,
当たり前のことを当たり前のようにできること
だと考えている.

喜ぶときに喜ぶこと,怒るときに怒ること,哀しいときに哀しむこと,楽しいときに楽しむこと.
謝るときに謝ること,耐えるときに耐えること,努力するときに努力すること.
礼には礼を尽くし,忠には忠を尽くす.
与えすぎるでもなく,求めすぎるでもない.
そういった当たり前のことを当たり前のようにできることが,
真に大人になるということだと,私は考えます.

逆に,研究者や突出した能力を持つ人は,大人でない方がいい.
飽くなき探求心,尽きること無い究明心,がむしゃらな振る舞い,なんでも楽しむ.
良く言われる大きな子供であるべきだ.
小さくまとまるんじゃねぇぇぇ!ってことですね.

この定義に従うと,オレは大人とは言えません.当然ですよね.
さらに言えば,大半の成人は大人とは言えません.
でも,それで良いんだと思います.
目標に到達してしまうと,成長を止めてしまう.
常に上を見続けていなければならない.

さらに,大きな子供タイプでもない.
オレってホントに半端な人間です.
そんな半端さが無限の可能性を引き出してくれそうな気がして,
とっても大好きです♪

あー!思想って楽しいぃぃぃぃ!!
思想激突のガチンコバトルってあんまりないもんなぁ・・・
激論してみたいなぁって思う,ここ数年.
学部生の頃が懐かしい・・・

2006年01月31日

「わからない」がわかった

TAの経験と話術によって得た情報から,
「授業がわからない」
というのが,一体どういう状況なのかを考えたい.
仮説を立ててみる.

仮定
授業でやってることがサッパリわからない.
何をやってるのかわからない.
どうしてそうなるのかがわからない.

仮説
授業で扱う範疇を理解できないのではなく,
授業を習うに当たって必要となる前提知識の欠如が原因.

事例
・解析学を受講しているのに,微積分を理解していない.
・プログラミングの授業なのに, PCの使い方がわからない.


私が思うには,
教え方の上手い下手は別として,情メの授業の網羅性は十分だろう.
しかし,授業の前提条件および目標が明確でない場合,
受講生が途中で道に迷う可能性を含んでいると思われる.
ただし,シラバスに明記されているか,
あるいは,ガイダンスで説明があるかについては,一切不明.
情メの授業では,そういったことがないと信じたい.

「授業がサッパリわからない」という状況は見過ごせない.
しかし,その背景には,前提条件の欠如が見られると思う.
例えば,プ技において,
C言語の基本的文法を理解していないというのは,問題だ.
プ技はプ実を前提にしているわけであり,
C言語が書ける前提があるのだ.
その状況下で,プ実未修得または理解不十分のまま,
プ技を受講して,わからなくなるのは,至極当然と言えよう.

そこで学生は,以下の選択肢から自分の道を選ぶことになる.
・修得を諦める
・前提知識を習得する
・全てを天に任せる

理想的には,前提となる知識や技術を教える科目があっても良い.
しかし,学科カリキュラムに組み込むことは,物理的に不可能だ.
何故不可能か?
教員が足りないし,コマ数も足りない.
ですので,計算機センター開講科目を有効利用していただきたい.
それが嫌だと思うなら,是非とも,自助努力をして欲しい.
大学の授業に,無駄なものなど一切ない(はず).
無駄だと思うのならば,獲らなければいいことだし,
無駄だと感じる自分の向学心の無さを恨めばいい.
大学は教育の最高学府である.
学べ

良く言われることだが,
「わからないことをわからないまま放置しておく」
という事例が頻発する.
この理由として,
「テストだけしか考えていない」「単位修得が目標」
などが考えられる.
本来ならば,わからないことは,その日の内に解決するべきである.
そして,その自助努力を行わない学生に対して,
教員側は一体どのような救いを差し伸べることができるのだろうか?
テストにでるところをピンポイントに教えることだろうか?
甘やかして単位を与えることだろうか?
厳しく突き放し,現実を見せることなのだろうか?

2005年11月19日

大学教育に思うこと

オレは工学の人間なので,工学以外の分野は知らない.
他分野では違うかもしれないので,その辺はご愛敬.

大学は最先端を追いかける教育をしないといけないらしい.
最高学府ですから,そうあるのは,妥当であり,必須.
それについては,異論はない.
だが,最先端を教育するのが,最先端研究者というのは,どういう解釈か?
確かに,最先端研究者は,その道のスペシャリストであり,
最先端を実際に駆け抜けているパイオニアであるのは,間違いない.
だがしかしだ.
常々口にすることだが,優れた研究者が,優れた教育者とは限らない.
もちろん,その逆もまた然りだが.
しかし,一つ忘れてはならないことがある.
最先端教育は,最先端研究者以外ができないわけではない.
最先端の研究は,論文やら学会発表やらで,公知の事実になっているので,
教育で扱うレベル」においては,その分野の誰もができるはずである.
ポイントは,扱う範囲が「教育レベル」であるということ.
これが研究レベルとなると,最先端研究者の守備範囲だろう.

もちろん,最先端研究者の話は,重要だと思う.
大学としても,そういった研究者を教授として持つことに,意味がある.
それはよく分かる.
だが,教育面ではどうだろうか?
必ずしも,そうは感じない.
教育を行うべきは,教育意識のあるものであるべきだ.

ここのブログは所属が明らかなので,
公然と批判するとまずいので,控えめに批判する.

少なくとも,大学入門レベルの教育(当学科では2年まで)は,
教育に根差した教員(講師,助教授,教授)が行うべきだ.
高校でのゼネラルな教育が,
大学からスペシャルな教育に一変する.
その繋ぎの部分は,教育意識のある人が,
上層教育を目標に教育するべきではないのか.
大学入門レベルで,最先端研究者が,ガッツンガッツン授業をしても,
「言ってることが分からない」「分からないことが分からない」
という,本末転倒な事態になるのは,既知の事実だろう.
そういった,専門的な教育は,ある程度の基礎が身に付かないと,
何を話しているのかさえ分からないと言うことは,既に経験しているはずだ.

大学で教育すべき内容(カリキュラム)は決まってる.
それをどのように教育するべきか,という議論が欠如してないだろうか?
学生がどう思っているのか,
どうしたいと思っているのか,
どうされたいと思っているのか.
そういったことが,大学側には伝わっていないように思う.
時代のニーズだけでは,学生を確保できないことは,わかっているだろうに・・・

ウチの大学は,マンモス校だし,全国に付属校がある.
創設者は,素晴らしい教育観を持っていたと思う.
巨大私学の利点を最大限に生かして,
これからの大学教育の最先端を突っ走って欲しいと思っているのだが・・・

教育と研究と経営

難しい三つ巴だよね!

2005年11月05日

大学教育

姫と有意義な議論と意見交換が出来た.
オレは,学生側の不満を概ね理解できているようだ.
理解できているのに,改善できないのは何故か?
・オレに実行権限がない
・カリキュラムの息苦しさ
・私学教育(経営)の限界

オレの信念上,次に示す教訓は認められないが,
情メの現状に打ち付ける最適な教訓かもしれない.

大学は,4年間で社会への適応力を身につける場である

誰が言ったかは記憶にない.学部時代の友達の誰かだ.
正確に覚えていないので,オレ解釈が混じっているが,名言だ.

これには,2つの意味がある.
1つは,大学の勉強は役に立たないものであるという皮肉.
もう1つは,大学4年間は自己責任であるという真実.

情メの学生は,甘やかされすぎだと思う.
懇切丁寧に情報を流布し,卒業のためのガイドもある.
「分からなければ訊け」の精神が根付いていると思う.
自立心が芽生えない限り,社会に適応出来ないと思うのだが,
現在の社会には適応できてしまうのだろうか?マニュアル人間?

だからといって,厳しくすればいいわけでもない.
私学にとって,学生は顧客も同然である.
顧客に厳しい企業が生き残っていけるだろうか?
実際問題,それは難しい.
つまり,理想の教育が見えていても,
私学でそれを実現するのが,如何に困難であるか.

教育って,難しいんです.
ですので,自己学習意欲で,勝手に勉強して下さい.
パッシブな教育を期待しないで下さい.
アクティブに学習して下さい.
それが,総じて,やがて,己が血となり肉となります.

結論:つまり,現代教育による挫折感です.